kiritterのブログ

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良くも悪くも強烈なインド - 書籍紹介 - インドの本と10年後に食える食えないの本

今回は、3冊併せてのご紹介。

 

インドの本と言われて最初に念頭に浮かぶのは、紀行系の本。
著者の有名無名に関わらず、インド紀行本は多い。
類するものとして、ビジネスマンによる現地滞在記。
そういう本も、ざっと立ち読みしたが、今回は、インドとはどういう国なのかマクロな視点で知りたい、だったので、次の本を購入。

 

『インド - 目覚めた経済大国』(日経ビジネス人文庫)(日本経済新聞出版社、2007/05)

インド―目覚めた経済大国 (日経ビジネス人文庫)

インド―目覚めた経済大国 (日経ビジネス人文庫)

 

『本当はどうなの? これからのインド』(中経の文庫)(白水和憲、中経出版、2009/05)

本当はどうなの? これからのインド (中経の文庫)

本当はどうなの? これからのインド (中経の文庫)

 

ひとまず、いきなり詳細な本に手を出すのはやめて、文庫で抑えた。
結果として、目的達成には十分だったと思う。
ちょうど、リーマンショック前後の発行の2冊があったので、両方購入。
前者は、小さめの字でみっしり詰まっていて、内容はかなり充実していると思う。
後者も買ったが、リーマンショックもなんのその、成長は続伸中で、大枠の急激な変化は無さそうなので、1冊だけなら前者が良いと思う。

 

インドのことを全然知らなかった。
本書によって、インドのことがある程度イメージできるようになったとともに、光の影の両面から強いショックを受けた。

人間というもの、無意識に、自分のおかれた環境をそのまま拡張することで、世界を類推してしまうものだと思う。例えば、受験戦争!という言葉を聞きながらも、自分のクラスを眺めて周囲が特に切羽詰った感のないとき、そのことが全然実感できないように。
というわけで、別のクラス、別の学校を知ることは非常に有益だ。

光の面で言えば、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた頃、イギリス人から見た日本はこういう感じだったのかなと思った。

 

中国についても同じことが言われるけど、まずは人口の桁が違う。
富裕層にしろ、エリート層にしろ、何らかの層が例えば人口の1割と考えると、それがいきなり1億人というオーダーになる。
つまり、市場のでかさが違う。
携帯電話加入者数は、昨年(2011)前半で、8億人を突破したらしい。
モノスゴイ数字だ!

 

後者の本では、中国の南下政策に対抗する構想として、「環インド洋圏」という言葉が出てきた。西に湾岸諸国とアフリカ東海岸、東にアセアンとオーストラリア、その中心にインドが座すという壮大な世界観。日本は、そんな一大経済文化圏の蚊帳の外だ・・・。

非常につらいことだが、昨年の3.11により、東京がアジアの中心地になるという夢は完全に絶たれてしまった、そんなことを思ってしまう。
地震のリスクと原発問題が海外に広く認知されてしまったことで、わざわざ東京を中心拠点として位置づけるに値するメリットが無いと思うことから。
観光立国を目指していた戦略にも大きなマイナス要因。
そうなると、日本は本当に極東の一島国になってしまう。
(とはいえ、仮にそうなるとしても、それはそれで良い面が全く無いとは思わないが)

 

とはいえ、インドも良いことばかりではなく、非常に大きな爆弾も抱えている。
それは、ヒンドゥーとイスラムの宗教対立である。
後者の本では、近年、爆弾テロは、インド全土に拡大していて、無差別性を帯びている感ありと。命に関わるカントリーリスクだ。
以前は、隣国パキスタンからの越境テロだったものが、近年では、最貧困層にあたる、国内のイスラム教徒の人口増に伴い(貧困層ほど出生率は高い)、彼らによるテロが増加しているらしい。

そのためにもインドでは、「全体の底上げ」が近年の成長テーマであり(2004年の政権交代の要因となった)、雇用の確保が最重要課題として挙げられている。
その一環で、製造業の誘致に全力を上げているとのこと。
日本企業の工場進出もあるわけで、それはつまり巡りめぐって、日本の雇用が失われることを意味する。

 

今回の本にはあまり生々しい影の面は書かれていないが、ともかくそれらを知った後で、今、日本という国にいることを思うと、ただそれだけで幸せを感じるほどだが、同時に、インドの輝く光の面にも戦慄を覚え、これから日本はうまいことやっていけるだろうかと、違う不安も覚えた。

 

 

もう1冊の本は、以下。

『10年後に食える仕事、食えない仕事』 (渡邉正裕東洋経済新報社、2012)

10年後に食える仕事、食えない仕事

10年後に食える仕事、食えない仕事

 

著者は、「現場を重視した生のニュースをタブーなく追求・配信」するMyNewsJapanの代表兼編集者の方。

 

本書には、インドと中国の名がたくさん出てくる。
こういう文脈で両国の名を目にすることは日常茶飯事的にあるが、
つまり、はいはいその話ね、と記号的に処理しがちになるが、
そのときに、まさに上述のインド本で読んだ内容が生々しく脳裏に浮かび、
これまでになくリアルな話として伝わってきた次第。

 

ちなみに、「半導体は産業のコメ」という言葉が出てくる。
そういえば確かにこの言葉、小学校で社会の教科書に載っていたかも、と思い出した。
それが今や瀕死の状態だ・・・。
何ということだろう、この時代の移り変わりの早さは。

その昔、繊維産業が主産業だったと教科書で習ったときは、
「繊維だなんて!」と思ったものだが、
「半導体だなんて!」とは思わなかったわけで、
そうなると、今まさに花形産業な業界も、いずれはそう言われる日が来るということ。
そのことを踏まえて10年20年を考えないと。

昨今のニュースで伝え聞くテレビの状況も非常に厳しい。
クルマも、電気型が一人立ちしたときにパラダイムシフトが起こりそうだ。

 

 

光も影も両極端な国、インド。
ともかく、カンブリア爆発のような猛烈な勢いを感じたのだった。

※インドの勢いに押されたようで、悲観的な雰囲気が漂っているかもしれない・・・。
  ときにはそういうのも必要だと思うことにする。

 

ソーシャルって何だ? - 書籍紹介 - 日本的ソーシャルメディアの未来

「ソーシャルメディア」という言葉を初めて見聞きしたのはいつだろう。
ソーシャルゲーム」という言葉の方が先だったろうか。

ともかく、第一印象は「”ソーシャル”って何だっけ?」

 

前回の記事に載せた 『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』
サブタイから見えるように、そのテーマからして、一瞬、ルソーの『社会契約論』の名も出てくる。
Wikipedia で見ると、『Du Contrat Social』ということで、「ソーシャル」という単語が出てくる。
ついでに、Wikipedia で「社会」を見ると、

19世紀半ばまでの日本語には「社会」という単語はなく、
「世間」や「浮き世」などの概念しかなかった。

らしい。

 

とりあえず、そんな私に簡潔に、”ソーシャル”のイメージを教えてくれたのが本書。

 

『日本的ソーシャルメディアの未来』
濱野智史, 佐々木博、技術評論社、2011)

日本的ソーシャルメディアの未来 (PCポケットカルチャー)

日本的ソーシャルメディアの未来 (PCポケットカルチャー)

 

今でこそ「ソーシャルメディア」という言い方が当たり前になっていますよね。

でも、皆さんに思い出してほしいんですけれども、

ちょっと前は掲示板とかメーリングリストのことを「ネットコミュニティ」と

呼んでいたと思うんですよ。

あ、なるほど、確かにそんな言葉を見聞きしていた気がする。

 

<コミュニティ>というのは、具体的な例で言うと地域共同体とか家族共同体とか - これは家庭のことですね - 要するに狭くてローカルな範囲の人間集団を指します。

これに対し、<ソサエティ>というのは、具体的なイメージでいえば「都市」なんですね。広範囲の場所に、たくさんの見知らぬ人々が集まっている場所。

都市か。それで「契約」というような話になってくるのだった。

 

英語だとCOI(Community Of Interest)と言ったりするんですけども、

普通はこのようなものは<コミュニティ>って呼ばないんですよ。

(中略)

2ちゃんねるなら2ちゃんねる、別の掲示板なら掲示板という感じで、

それぞれの拠って立つ「場所」がはっきりしていた。

(中略)

それもあって、「コミュニティ」という比喩が使われていたんだろうなと思います。

なるほど、ある特定の限られた人たちがいつも集まるというような掲示板サービスを想像するに、コミュニティという呼び方がしっくりくるという雰囲気は何となく分かる。

 

いろんなものがマッシュアップ的に、境界線なく連携するようになってきた。

こうなると、ネット上の地域性のようなものは、それ以前に比べると希薄になってくる。

それであまり<コミュニティ>というイメージがそぐわなくなって、

「ソーシャルメディア」と言われるようになったのではないか、と思います。

確かに、Twitterと聞いて「コミュニティ」という言葉は浮かんでこない。
じゃあ何が浮かんでくるかといえば、それが「ソサエティ」なのか。
そんなメディア、ということで、「ソーシャルメディア」なのか。

 

というわけで、本記事は、本書の第1章の話のみピックアップしたもので、
その後は、タイトル通り、「日本」「日本人」とソーシャルメディアについての話が続いていく。

 

ひとつの側面を1点だけピックアップ。

ヨーロッパやアメリカは歴史的に、人種対立や宗教対立を経た上で社会を作り、フランス革命以降の近代国家を作ってきているので、「いろんな人たちが、分かり合えないかもしれないけど共存してひとつの社会を構成している」という感覚がすごく強いんです。

(中略)

それ(原始共同体的なもの)がばかでかくなっているのが日本社会、というイメージなんです。つまり、日本社会は<ソサエティ>ではなく<コミュニティ>としての性格が強い。これは今でもそうだと思います。

そして最後の方で、

とにかく日本は<ソサエティ>の領域をうまく作れていない

ソーシャルメディアの本で、こういう話を聞くとは思わなかったけど、
それはともかく、個人的には日本にそういう領域がもっとできるのがいいと思うので、
こういう話を聞くことで、意識的にそこに向かうことができる。

 

先日の記事 『ツイッターってラジオだ!』

その前の記事 『100万人から教わったウェブサービスの極意』

さらに前の記事 『ソーシャルメディアの夜明け』

同じTwitterでも、見る人が変わると、そこに見えるものが全然違っていて、
ジョブズ本・アップル本で読んだ、「いろいろな分野の専門家を集めて製品を作る」のくだりを思い出した。深みのあるサービス作り。

ちょっと違う話だけど、インドで売られているSAMSUNGのテレビは、画面右隅にクリケットのスコアが常時表示される、という話を思い出した。
テレビひとつ取っても、自分たちの常識を軽く覆される・・・。

 

「今」に至る文脈 - 書籍紹介 - 世界と日本のまちがい

載せる本の幅を広げるため、過去読んで印象に残っている本も織り交ぜようと思った。

自分がいつもググって本を見つけて買っているように、誰かの本の出会いに貢献できるかもしれないというのが、このブログのひとつの目的なので、内容について今きちんと語れるかどうかはともかくで、自分がこれいいと思った本は載せていきたい。(自分の考えて無さが露呈して情けない話にはなるが)

 

『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』
松岡正剛、春秋社、2007)

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義

 

私は、この非常に興味深い日本というものがどうやって生まれてきたのかというただその一点から、古代史に関心を抱き、折に触れて読むのだが、本書に出会ったことで、近現代史にも注意が向くようになった。
まさに「今」に至っている直近の大きな文脈なのだと。

 

本書の読書中、大きく2回、ドキリとする文章に出会い、それによって本書の存在が記憶に刻まれたので、そこだけをピンポイントでご紹介したい。

 

博覧強記で知られる著者の、縦横無尽の解説による欧米アジア各国の近代動向の話に浸っているさなか、本書の半分にさしかかろうかというところで、著者は突然こちらにボールを投げてくる。

それにしても、明治日本はこのような近代化の方法しかとれなかったんでしょうか。アヘン戦争に見舞われた清国の轍を踏まないためには、この方法しかなかったんでしょうか。それとも、列強と一戦を交える能力もなく、その気もなかった日本にしては、けっこう上出来の維新革命をしたんだとみるべきなんでしょうか。

この判断は、今日の歴史家たちにもなかなか結論しがたい問題のようです。みなさんは、どう見ますか。明治の近代化政策って、成功なんですか、失敗なんですか。まあまあなんですか。何かが足りなかったとすれば、それはどういうものですか。

「成功なんですか、失敗なんですか。まあまあなんですか。」

「えっ・・・」

欧米の歴史教育では歴史上の登場人物なり立場なりに立って討論するような授業もあるのかもしれないが、今の日本の歴史教育がどういうものなのかも知らないが、とりあえず、自分の受けた歴史教育は、暗記の授業だった。

歴史とは、人類の試行錯誤の壮大な記録だ。何をしたときにどういうことが起きたのか、そのノウハウの蓄積だ。覚える科目ではなく、そこから吸収する科目だったのだ。
そういうことに、子どもの頃に気づきたかったなあ・・・(自分の愚かさに文句を言うしかない。。)

とりあえず、列強の植民地にならなかったことは良かった、とはいえ急激な欧化によって、廃仏毀釈とかそれまでの日本の文化を壊したり、断絶ができたようなことは良くなかった、そんな断片的なことしか言えない。

 

ここでの衝撃はそのまま次の話につづく。

話はどんどん進み、第一次・第二次中東戦争へ。
そして、著者はこう言う。

さあ、ここからさき、中東がどうなっていったかというのは、もう現在の世界史です。

実際は「現在の世界史」部分に傍点が振られている。

今の私が何か書くより、このページに書き込まれている自分のメモの方が、そのときの気持ちをうまく言い表している。そのまま引用。

この言葉の緊張感。
どこか絵空事だと受け止めていた歴史が、
まさに自分の今と地続きであることに、はっと気づく言葉。
そして、「いろいろあったけどめでたしめでたし」で今の世の中があるわけじゃなく、
今まさに不安定な社会に生きていることに気づく。

 

しかし、これだけの大小の膨大な出来事を編集して、ひとつの文脈として見せてくれる、著者のチカラにはただ脱帽するばかり。
私の方もそれを有難くきちんと受け止めて役立たせないと。
(大枠を結構な割合で忘れていることに気づいて泣きそうになる!
 道具として使わない知識はすぐに忘却の彼方に消え去る!) 

 

モノを見るときの「枠組み」を見る - 書籍紹介 - プチ哲学

文庫だから500円くらいかなと思って書店で手に取ったら、680円だった。

高いっ!

しかも、半分は絵で、文章はちょっとしかない。で、680円。

高いっ!

でも、買った。。

 

『プチ哲学』(中公文庫)(佐藤雅彦中央公論新社、2004)

プチ哲学 (中公文庫)

プチ哲学 (中公文庫)

ちょっとだけ深く考えてみる - それが、プチ哲学

著者は、「バザールでござーる」「だんご3兄弟」「ピタゴラスイッチ」等で名の知られる方で、
本書は、雑誌「OLIVE」に連載されていたものをまとめたものとのこと。

簡単に目を通すだけでも楽しめるし、(著者はもちろんこちらを望んでいるかもしれないけど)スルメのようにたくさん噛んで味わうことも出来そうな、そんな一冊。

 

とりあえず個人的に、絵があって文章がある、このスタイルって好きだ。
絵じゃなくて写真でもいいのだけど、ビジュアル要素と文章の組み合わせというのがどうも好きらしい。
ビジュアル要素は情報量が多い。
それに対して、文章でちょっとした切り口を見せる、そういうのがとてもおもしろいと感じてしまう。
そんな気持ちで680円出してしまった。
とりあえず、自分は絵を描くのが下手なので、その代わりに書籍を挙げているのだと、680円出してそういう自覚に至った。(^_^;)

 

 # 絵が下手というか、手で描く練習をしてこなかったなあ・・・。
 # 絵は大事だ。
 # 考えが整理される。
 # 絵でうまいこと表現できないということは、考えがうまくまとまっていないのだ、
 # そんな風にも言える。
 # とりあえず、シゴトでも絵は重要。

 

個人的に一番味わい深かったのは次の話。

「価値のはかり方」について

 

ひとつの事柄には、いろんな価値が存在します。

例えば、1kgの金塊は、お金に換えると莫大な額の数字になりますが、
つけもの石として使うとしたら、1kgの価値しかありません。

あるものの価値を測るのに、いろんなものさしがあるということを知るのはとても大事なことです。

そして、そのときもっと大事なことは、どのものさしをあなたが選ぶかということなのです。

 

絵も良かった。

そして、文章では最後の一文。

 

今日までいくつかブログ記事を書いてきて、結局のところ個人の選択、みたいなことを最後に書いてしまうことがあったが、蛇足だと思いつつも付け足したくなる一言だったけど、最終的には自分宛ての言葉なのだろう。。どれだけ自分に言い聞かせれば気が済むのか。。まあそういう時期もある。

 

 

もうひとつだけ引用。

「枠組み」ということ

 

見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえもってしまいます。

私たちがものを見ている時には、必ずある枠組みからものを見ているということを知っていなくてはいけません。

こういうテーマを聞くと、真っ先に、自分の若い頃の経験を思い出す。
視野狭く、プログラムを書くという立場でしか、物事を見れなかったあの頃の自分を・・・。
立場が変われば、見える世界が変わる。
扱う物事が変わって、対処しなきゃいけない問題も変わり、創る価値も変わる。
少なくとも、まずはそういう「枠組み」というものを想像さえできれば、不毛な言い争いは避けられると思うのだが、人それぞれで、なかなか理想的にはいかない。

 

以下の本に、類似するテーマの話があって、
当時、とても共感して周囲に紹介したことを思い出した。
ここで改めて引用してみる。

 

『Joel on Software』(Joel Spolsky(著), 青木靖(翻訳)、オーム社、2005)

Joel on Software

Joel on Software

 

私が最初にフルタイムの仕事をしたのは、パン工場だった。

大きな部屋が2つあり、一方の部屋でパンが焼かれ、もう一方の部屋で箱詰めされていた。

最初の部屋では、みんな一日中パン生地問題に取り組んでいた。
パン生地は機械の中にこびり付き、手に付き、髪に付き、靴に付く。
そしてみんな、こびり付いたパン生地を取るための小さなペンキ剥がしを持ち歩いていた。

2番目の部屋では、みんな一日中パン屑問題に取り組んでいた。
パン屑は機械の中に付き、髪に付く。
そしてみんな、小さなブラシを持ち歩いていた。

私はどんな仕事にもそれぞれ悩みの種 - その仕事に固有の果てしない苛立たしさの源 - があるものだと思い、
そして自分の働いているのがカミソリ刃工場でないことをありがたく思った。

そんな風に始まる記事のテーマは、

ソフトウェア開発では、目的や性質の異なる様々な世界があるのに、そういったことを無視して、どちらが正しいだとか優れているだとか不毛な論争を繰り広げているように見える、といったもの。

そして最後に、

それぞれの世界には、それぞれの悩みの種がある。

(中略)

互いのパン生地問題やパン屑問題を理解して敬意を払い、
ニュースグループをもっと文明化された場所にしよう!

 

「お互いの問題を理解して敬意を払う」

長期的な生産性の向上にはこれが一番効果あるんじゃないかと思ったりする。

ネガティブ発言満載の場所には、どんな手法やツールを取り入れても大して効果は上がらないように思う。

そういう意味でも、結局のところ、人だ。

 

日々の雑感 - 徒歩0分の店

日々の雑感カテゴリは、ツイートの長い版だ。。

 

 

今朝、駅のホームから、ある看板を目にした。

ていうか今朝が初めてではなく結構目にしている。

そして、見るたびに、「あ、そうそう、この看板」と思う。

そして、電車に乗ってすぐ忘れる。

その程度の話だ。。

 

その看板には、ドヤ顔で(顔無いけど)、駅から「徒歩0分」と書いてある。

0分って駅だから!

ともかく、南口から出て、どこそこを右折してすぐ!みたいなことが書いてある。

絶対、0分じゃないだろ!

 

もしかして、59秒で切り捨てだとでも言いたいのだろうか。

とはいえ、59秒なら、1分と言う方が、足を運ぶ顧客の実態に即している。

いやいや駆け足で29秒だから、1分と表現すると全然違うんですよ~。

ということであれば、30秒と言ってほしい。

別に、「分」にこだわる必要は無い。その方が行く人の実態に即している。

  

まあ、こんなのよくある話じゃないかと。

何をそんなに気にしているんだと。

確かに通常ならどうでもいいものとしてスルーしていく情報なのだが、

しかし、その看板、「高価買取!」なんていう店の看板なのだ。

 

高価買取? ホントかよーっ!

顧客の実態に即さない何だか都合の良い表現の横に、「高価買取!」なんて書かれても!

高価どころか買い叩かれそうだよ。

ゼロ円で没収されそうだよ。

この不信感!

 

モノを売る側の店の看板なら、ゼロという表現の価値はまあ理解できる。

でも、買い取り側の店の看板で、わざわざゼロと表現するに見合う価値があるのだろうか。

自分が知らないだけで何かあるのだろうか。

とりあえず、あるとしても、オレには不信感しか伝わってきていない。。

 

というわけで、買い取って欲しいなって思っている人たちの目を引きたいなら、

高価買取! 徒歩 60,000 ミリ秒」 の方がイイんじゃないかなあ。

 

と思ったのだが、ますます怪しくなったということだ。。

 

個人の継続的な成功について - 書籍紹介 - 最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと

手元の本を差し置いて、昨年読んだ本を取り上げるなどする。。

 

『最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと』
(マーカス・バッキンガム(著)、加賀山 卓朗(翻訳)、日本経済新聞社、2006)

最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと

最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと

 

この本を手に取ったのは、半年くらい前のこと。
そして、実は、全部は読んでいない。。(^_^;)
というのも、最初からすべて読むつもりはなかったのだ。
じゃあ、なぜ手に取ったのか。

 

第Ⅰ部 組織の継続的な成功について あなたが知らなければならない たったひとつのこと

第Ⅱ部 個人の継続的な成功について あなたが知らなければならない たったひとつのこと

 

本のタイトルである、リーダーとマネジャーについては第Ⅰ部で述べられている。
当時私が飛ばしたのはここ。
そして、読んだのは第Ⅱ部。
当時自分が考えていたことと同じような話がここに書かれているらしいことを知り、
その内容を確認したかったのだ。
その結果、自分の考えよりも磨き上げられた、本書の言葉を知るに至った。

 

というわけで、今回のブログ内容は、本書のタイトルには表れていない、
その第Ⅱ部にまつわるものだ。。

 

 

最初に、著者の主張する、そのたったひとつのことを引用する。

自分がしたくないことを見つけ出し、それをやめる。

たったひとつのこと、というだけあって、超シンプルで骨太。
もしかしたら、拍子抜けする人もいるかもしれない。
逆に「”現実”はそんなに甘くないっ!」って即座に拒否反応を示す人もいるかもしれない。。

 

とりあえず、この言葉は、非常に取り扱いの難しい言葉だと思う。
「単に嫌なことを避けるための免罪符」として乱発できるからだ。
なので、この言葉だけを単独で切り出して誰かに伝えるのは恐ろしい。
本書における長い長い説明はそのニュアンスを伝えるためにあるのだと思う。

 

 

さて、思い返せば入社2年目の後半のことだ。
当時のいろいろな事柄の兼ね合いの中で、それまで自分が希望し携わっていた業務とはかけ離れた、全然参画を望まないプロジェクトに参画することになった。
立ち上がり時にもろもろあったものの、最終的には役割を全うすべく覚悟を決めて邁進したのだったけど、ともかく、そんな日々の中、久しぶりに会った先輩に、私はこうこぼした。
「最近、いろいろ悩んでいるんですよねぇ・・・」
前述の、それまで自分が希望し携わっていた業務、のチームの先輩だ。
その期間、私には悩みなどなかった。
何しろ、自分が志望するものだったので、ただ希望に燃えて打ち込んでいたのだった。
ともかく、そのとき先輩はこう言った。
「いいことじゃん!」
思わぬ返答に「全然いいことなんてないですよ!」と返したのだが、
先輩はこんな感じのことを続けた。
「悩むということは、それまで自分が知らなかった事柄に直面しているということだ。
 それに対処することで自分の幅が広がる。成長するとはそういうことだ。」
私「!!」 

 

これだけだと、自分が超単純な人間に見えるけど。。(^_^;)
ともかく、いろいろな文脈の中で葛藤していた当時の私には、
なるほど!と深く得心する会話だったのだ。
そして実際、そのプロジェクトで多くのことを体験し、何よりも、殻をひとつ破ることができた。

 

その後もいろいろなプロジェクトでいくつかの役割を変遷しつつ業務に携わってきたが、
このやり取りのことがずっと、意識的にしろ無意識にしろ、土台にあったと思う。
悩む状況になるのは歓迎することだ。
何しろ、これを打ち破れば成長するよ!という壁が、
うまい具合に目の前に提示されているということだからだ。

 

 

さて、そんなやり取りをしてから随分年月が過ぎたある日、
その後の転機となったプロジェクトが唐突に始まった。

内容には触れず、当時の心境にだけ触れるが、
とりあえず、やっているときはそれまで同様、無我夢中の日々だった。
悩んだりする時間など無かった。
それに、誰かの心の折れることが怖かったので、意識して、ポジティブな言動を心掛けた。
(とはいえきっと自分にも言い聞かせていたのだろう。。実際、言動は気持ちを変える。)

 

いろいろなことがあったけど、そこはすべてスルーして、
ともかく、すべてが何とか収束して終わろうとする時期に、
時間的にも心理的にも少し余裕ができたときに、ふと気づいてしまったのだった。
「これ、全然楽しくないな・・・」ってことに。

 

キツイプロジェクトはたくさんあったけど、全然楽しくない、そんな風に思ったのは初めてだった。楽しくないというのは、おもしろ可笑しくないという意味じゃなくて、ぼかしてざっくり言えば、自分が価値を見出せない作業、それが良いとは思えない進め方、それらに伴う現場の夢と情熱の無さ、そういったことに、自分の気力、体力、睡眠時間をひたすら削って走って、その結果得たものは何か、ただ心身のダメージだけが残った、そんなやり切れなさの気持ち。
ともかく、これが自分を未来に連れて行ってくれる道だとは到底思えない、そう思った。

 

とりあえず、何事も1回は挑戦してみて損は無いとして、
今回、世の中こういうプロジェクトもあるんだなと見識が広がったわけだけど、
これの2回目、3回目を求められるとしたら・・・??
(実際、はしごを外されそうになったし!)

それに気づいた今、この先何を指針にすれば良いだろう。
そのプロジェクトの後、いろいろ考えた。
社会人生活で何度目かの分岐点だった。
そんな日々から練りだした個人的な指針のひとつが、

自分がしたくないことを見つけ出し、それをやめる。

だった。(※前述通り、これは本書の言葉)

何を選ぶかではなく、何を選ばないか

自分を弱体化しているものを見つけられるかどうか、
そうやって見つけたものをできるかぎり効率よく
人生から排除することができるかどうかにかかっている

何とも繊細な表現だ。
諸刃の剣とはそういうものだろう。

 

 

もし誰かが「あれ、やりたくないんですよね・・・」とこぼしているなら、その理由の主たるものが、自分にできるかどうか自信が無いという漠然とした不安・恐れであったり、その仕事の価値を理解していないままにあんなの無意味とか言っているような感じであれば(冒頭の昔の自分みたいに)、「何事も1回くらい挑戦してみると絶対学ぶものがあるよ!」って言う。
でも、やってみて苦痛を味わっているなら、「やらないようにした方がいいと思うよ」って言う。

 

この世にその仕事が存在するのは、ニーズがあるからだ。
なので、それを満たせば、ひとまずは給料が得られる。
しかし、何しろ、これから20年30年働いていくのだ。
その土台の辺りで、価値を見出せないとか、苦痛を味わって心身を削っていたりするならば、
長期的な成功はおぼつかない。
それは、沼地に城を築いていこうとするのと同じくらいナンセンスな話だと思うのだ。

 

毎度のことながら、そういうのって結局のところ、個人の選択だ。
どれだけ苦痛でも、年収や地位、名誉的な方を重視して、耐え続ける人もいるかもしれない。
それでうまくいく人もいるのかもしれない。

 

ともかく、自分は自分、人は人、ということで、上述の指針を得たわけだが、
いざそれを現実問題に適用していこうとするのは、なかなか難しい話だ。
とはいえ、短い人生、これじゃないと思ったものに貴重な時間と気力体力を使うことはもうできないので、難しい話だけど、取り組まなければならない。

 

ふと思ったけど、会社に対する不平不満をぼやくのは、恋人に対する不平不満をぼやくのに似ている。無意識に期待しているのだ、自分は何もせずに相手がうまい具合に自分の期待に沿った言動をしてくれることを。そんな都合の良い話はそうそうない。
ずば抜けた人材だったり、美女やイケメンだったら違うかもしれないけど。。(^_^;)

 

話が逸れた。
ともかく、この考えを大なり小なり適用していくことにした。
(昨年の話じゃなく、自分のつたない考えで練りだした数年前の話)

損して得取れ、だ。

自分が採用した基準で自分が決断したことなら、
それが長期的にも損するという結果になったとしても、後悔はしないものだ。
いや、逆だ。後悔しないことをまず決めるのだ。

 

何だかいろいろ書き連ねてしまった。
たったひとつのことなのに、全然簡単じゃない。。

人生の選択肢に関する話は難しい。
スタートを切った後に、それぞれのタイミングで知ることになる本レースの概要は、
ゴールは人それぞれ! タイムリミットも人それぞれ!
コースは自由です! はりきってどうぞ!
人生そもそもムチャ振りなんだから、最初からうまくいくことを期待しない方が、
案外、力を発揮できるかもね、とか思いつつ筆を置く。。(^_^;)

 

余談

本記事の話とは全然関係なく、第1章の「隠れた原則の一例 幸せな結婚生活について 知らなければならない たったひとつのこと」
なるほど!と思った。。

 

むずかしいことに取り組もう - 書籍紹介 - 減速思考 【3/3】

つづきです。

前回【2/3】はこちら

 

『減速思考 - デジタル時代を賢く生き抜く知恵』
(原著タイトルは、Future Minds)
(リチャード・ワトソン(著)、北川知子(翻訳)、徳間書店、2011)

減速思考 デジタル時代を賢く生き抜く知恵

減速思考 デジタル時代を賢く生き抜く知恵

 

■ 第3部 われわれに何ができるのか

第2部の内容を受けて、そのまとめのような感じで、
「網羅的ではないが」という前提のもと、具体的な10のアドバイスが述べられている。

 

ひとつだけ、ちょっとびっくりした言葉をピックアップ。

次々に情報を詰め込むことで安心しているのだ。

 

(神経生物学者の)レオ・ハルパは、大胆にもこう提案している。

一年に一度は、まったく何もしない日を作るべきだ。

絶対に誰とも会わず、会話もせず、電話にも出ず、eメールもなし。

本も新聞も雑誌も読まない。テレビもラジオも音楽もなし。

誰ともコンタクトせず、人が作り出したもの、書かれたもの、

話されるもの、記録されたものにも一切触れない。

 

あなたはまったく何もせずに二十四時間過ごしたことがあるだろうか。

試してみよう。

 

マジか!! そんなこと、考えたこともなかった。。(^_^;)
でもよくよく考えてみれば、例えば鎌倉時代に僧侶が瞑想をするとか、こういう話だよなあ。
これはちょっと興味深いと思った。
そのとき一体何がアタマに浮かんでくるのだろうかと。。

 

実際やってみるとしたら、どうやればできそうか??

自宅のこの狭い部屋では、絶対ムリ。

旅に出るのも無理。
いつだって物珍しさに歩き回って心地よく疲れて終わりになるってことを知っている。。
それはそれで全然良いことだけど、この目的には合わない。

中間として、普通に知っている街で、ホテルに泊まるとかはどうだろう?
ちょっと無理そう。
部屋の中にいたら発狂しそうだし、施設内をうろうろできそうにもないし、
じゃあ外に出て喫茶店とか、オレはそういうのムリ。。

 

そこで気づいた。

あれだ、今まで行く必要性も感じなかったので1回も訪れたことないけど、
普通に街中にある、日帰り温泉的なお風呂の施設だ!

ああいう場所では、誰も彼もがボーっとしているはず。
オレも気兼ねなく、ボーっとできそう。
館内広めでうろうろできればなお良し!

 

そして、思い出した。
気づけばもう7年近くも前のこと、九州は宮崎の高千穂に行ったのだった。
それも3泊で!
行って気づいた。それほどの時間をかけて滞在するほど、巡る場所は無いということに。。
でも、それが全然良かった。
直前まで激務だったのに、急に、鳥のさえずりやトラクターの音しか聞こえない山奥にやってきて、やることがほとんどないというあのギャップ。
確か神社まで往復する途中に、温泉施設を見つけ、昼間っからボーっと入浴したのだった。
あれは不思議な感覚だったなあ。

 

ともかく、機会を作ってぜひやってみたいと思った。。

 

 

最後に。

デジタルテクノロジーに宣戦布告しているつもりはない。

本質的に悪であるわけではない。

ただ、時と場所に応じて、機械ではなく、人間が優先されるべきだと言いたいだけなのだ。

(中略)

コンピューターは、われわれの思考を邪魔するのではなく、助けるツールのはずではないか。

 

テクノロジーこそが個人の力を増大させる。コンピューターを個人の手に。
そんな信念のもと邁進したスティーブ・ジョブズ
そこから生まれたiPhoneが、「スクリーン中毒」を一層促し、
深い思考を奪っているとは、皮肉な話だ。

 

ブラックジョークが言いたいわけではない。

スマホによって自分の生活は本当に便利になった。
あんな薄っぺらい、手の平サイズの板で、よくぞこれだけのことができるものだと、
今でもしばしば感慨深くスマホを見つめてしまう。。
まさに魔法の板!
まさに子どもの頃に夢見た21世紀の道具! 

とはいえ、思わぬ副作用も出てきた、ということで、
これをまたテクノロジーで解決しようだなんて、そういう話ではない気がする。
これは、人間側の選択の話じゃないかと。

 

お酒だって飲み続ければ中毒になる。
甘いものを食べ続ければ太ってしまう。
必要とする思考の種類によって、強い意志を持って使い分けよう。

 

 

というわけで、戒めとして、本書をしばらく手元に置いておきたい気持ち。
お経のようにぶつぶつ唱えると良いかも。。
ともかく、すっごい大げさに言うと、少なくとも今の自分には、何より一番重要で根源的なアドバイスがここに載っている印象がある。
誰が読んでも同じ気持ちになるとは全然思えないけど。。(^_^;)
とはいうものの、爆発し続けている情報の海に溺れないための、ひとつの重要な話が載っているのではと思う。


しかし、急がば回れとは、ものすごい重い言葉だな!としみじみ感じられた読後感だった。。
想像してみよう、自分の横を走り去っていく背中を見ながら、回り道しようとする自分の心境を!
それでも、急がば回れ、って!

 

最後まで話が逸れる。

ともかく、今年はいざ「禁スクリーン」の習慣だ!
そして、むずかしいことに取り組もう!
それこそが、人生を豊かにする一番の近道だ!

(と、いっときテンションを上げるのは容易いことだ。。地道に真剣にやろう。)