ひょんなことから以前読んだこの本を思い出した。
『「はかなさ」と日本人 - 「無常」の日本精神史』 (竹内整一、平凡社、2007)
- 作者: 竹内整一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2007/03
- メディア: 新書
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示唆されることの多い本ほど、紹介するのが大変だ、とか、
すぐに実生活に役立つ、そんな本だけを紹介しないといけないなら、それでも書く理由なんてあるだろうか、とか、そんなことをいろいろ思いつつ、ちょっとブログから離れていたけど、
気が向いたときに気ままに書くことにした。
この本、日本の歴史が好きな人ならきっとおもしろいと思う。
歴史小説好きな人には、その時代の人々の背景を知ることでよりおもしろく読めるとか。
また、まさにアイデンティティ確立のさなかにいる年代の人には、
現実問題として示唆されるものも少なくないんじゃなかろうか、そんなことを思ったりする。
とても丁寧な筆遣いで話が進んでいくという面からもおすすめしたい気持ち。
「はじめに」で、本書のテーマが示される。
(前略)
それはまぎれもなく、ひとつの無常・ニヒリズム状況を示しています。
本書では、こうした状況をそれとして主題化して検討し、
その状況を何らかのかたちで肯定に転ずることができるとすれば、
それは、どのようなかたちでありうるか、
ということについて考えてみたいと思います。
問い方の表現をかえれば、
「はかなさ」の向こう側があるとすれば、
それは、どこにどのようにありうるか、という問題として立てて考えてみたいと思います。
そして、
「はかなさ」「むなしさ」というような事柄は、現代に初めて生まれたものじゃなく、人間が生まれて死んでいくという状況下で常にあったもので、その時代その時代に、格闘の歴史があったのだということで、これまで問われ続けてきたのと同様の問いの蓄積のうえで問われなければならない、ということで、
1章の最後で、分析の進め方が示される。
そこで、以下、「はかなさ」の向こう側のあり方を、
図式的に次の三つのタイプに分けて考えてみたいと思います。
①「夢の外へ」
この世は夢、だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
②「夢の内へ」
この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく。
③「夢と現のあわいへ」
この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする。
①と③については、現代でもそれなりに一般的で想像可能な考え方だと思う。
①は、浄土へ、極楽へ、という考え方だし、
③は、「今を生きる」とか「大河の一滴に過ぎないけど、その一滴が大河を作る」とかの考え方かと。(※ちょっとニュアンス違うかも・・・)
それはともかくとして、何より驚きだったのは、②の考え方。
こういう考え方を、この本で初めて知った。
びっくりして、そして、戦国時代の話と照らし合わせて、何だかわかったような感じがした。
(能の幽玄というのもこの志向なのだろうか?? 知らないまま適当に書いてますが・・・)
この世が「浅き夢」(※)であるならば、その中途半端な「浅さ」がまずいのであって、
むしろそれをさらに、いわば「深き夢」、「濃き夢」へと仕立て上げ、のめり込んでいこうとするような志向
(※「いろは歌」=「色は匂へど散りぬるを 我が世誰そ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」の「浅き夢」を受けての表現)
ということで、
露とおき露と消えゆくわが身かな 浪速のことは夢のまた夢
(豊臣秀吉の辞世の歌)
(前略)
いずれにしても、武士たちは、自分たちの生をふりかえったときに、
判で押したように「ああ夢のようだった」という感慨をもらしています。
(中略)
しかしだからといって、彼らは、『一言芳談』のように、
「此世の事はとてもかくても候」(※)などとは決して言いません。
むしろ懸命に、この夢幻のごとき世界を生き抜いています。
その能動的な行動力やエネルギーには驚くべきものがあります。
この世は夢幻と言いながら、というより、むしろそう言うがゆえに、
彼らは自分の命に執着することなく、戦闘者として生き切ることができた、
あるいは、死に切ることができたということでもあります。
そこにかえって、通常にはない能動性を可能にしている面もあるかと思います。
(※この世のことはどうでもいいので、後世をどうか救って下さい、という感じの気持ち)
夢に突入して夢ならざるものへと突き抜けていく
なんともすごい方法があったものだと驚いた。
そして、実は現代でも、ある層の人たちはある意味この方法を採っているとも言えるのかな、
そんな理解にも及んだ。
というところで、以上です。