「合図があったら、このボタンを押して下さい。」
この指示内容に何か曖昧なところがあるだろうか。
無さそうに見えて、あった。
とある開通式的なイベントで、偉い方が現場の装置のボタンを押すという演出があり、その際に冒頭の指示の曖昧さが顕在化した。
何が起きたか。
そのボタンは、ぐうぅぅぅぅぅと長押しされたのだった!!
その操作はあまり望ましくはないものだったようで、現場ではちょっとした騒ぎになったとのことだったけど、実害は何もなく、まあ、ある種の笑い話としてお聞きしたお話。
なるほど、ちょっとした緊張感や、確実に押そうという意識から、そのような長押しになったのかもしれませんねとそのときは言ったけど、先日、身近なところで同じような状況に出くわした。
それは、両親と携帯電話にまつわる話。
「○○ボタンを押しても、(説明書の内容とは)違う画面が出てくる」
いやーそんなことは無いだろうと思ったけど、
原因は、そう、「長押し」していたのだった。
そんな出来事から、冒頭の話を思い出し、
なぜ長押しするという行動になるんだろう??と思った。
最初は、安直に、世代(年齢)によるものかな、と思った。
しかし、よくよく考えてみると、両親だって、テレビのリモコンは使うし、電子レンジも使うわけで、「ボタンをプチッと押す」という感覚は知っているはず。
で、思い至ったのが、
「押す」という表現にはそもそも、「ぐうぅぅぅと長押しする」イメージが含まれているんじゃないかということ。
雪道でクルマを押す。
朱肉をつけてハンコを押す。
日常生活で何かを押すときは、大抵「押し続ける」ような気がする、と。
というわけで、
日常生活で「ボタンをプチッと押す」という感覚は知っているはずだけど、
いざ、「普段は見ることもない仰々しい装置のボタンを押す」とか、
「携帯電話という比較的最近の、自分には馴染みのない機械のボタンを押す」ということになったときには無意識に、
「いつもの『押す』」=「ぐうぅぅぅと長押しする」の行動になるんじゃないだろうか、
それは確実に押そうという意図も込みで、と思った。
というわけで、
「長押し」というUIは、あまり良いアイデアじゃないぞ、
「通常の押す」操作を上書きするという面で、とか思った。
ポンッと押しても、長押ししても、同一の挙動をするのが望ましいなと。
さらに、これ以上押し続ける必要は無いですよと分からせるためにも、
押されたら何かしらすぐに反応を示すのが良いと。
そんなことを思いながら、今夜は久しぶりに、すき家でカレーを食べました。。