kiritterのブログ

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仏教的なものに対するモヤモヤ感への丁寧な説明 - 書籍紹介 - 史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち

今まで熱心に追い求めたことがないから当然のことではあるけど、それはともかくとして、
「仏教的な話って、字面上分かったようになるけどその実、全然よく分からん」
と、長年モヤモヤのまま放置していた内容に対して、
この本以上に親切に丁寧に説明してくれた本に今まで出合ったことが無かった。

 

もちろん、この本の表現を借りるなら、
だけどそれは「ホントウはわかってないだろ」の状態であるのは間違いない。
それは確実。
何故なら、何ら「体験」できていないため。

 

そして、そうやって字面上わかった気になることこそ「ホントウにわかる」から遠ざかる道、
というのも字面上分かるのだけど、
それでも、現代に生きる市井の人間のひとりとして、字面上分かるだけでも随分助かる。
入り口のモヤモヤが晴れたというだけでも。
いや、まあ、字面上も、分かったかどうか怪しいものだが・・・。

 

というわけで、この本の存在をここに紹介だけでもしておきたい。

 

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』 (飲茶、マガジン・マガジン、2012)

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (SUN MAGAZINE MOOK)

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (SUN MAGAZINE MOOK)

 

いや、表紙がちょっとすごいですよね・・・。
最初、店頭でこの本を見たときは、「うわー、また新手の本が出てきた」と思った。
完全にネガティブな意味で。
だからその日は完全にスルーだった。
で、後日、各種の縁で、後述の西洋哲学の本を手に取るに至り、
そこから、本書も手に取った次第。 

 

最初からもう率直に伝えてくれる。
この本を読んでもきっと「理解」できないよ、と。
西洋哲学は「理解することが難しい」けど、「不可能」という意味ではない。
しかし、東洋哲学は少なくとも読書することで理解に達するのはまず「不可能」なんだ、と。
そこから長い長い話が始まる。

 

が、この厚い本、ぶっちゃけ最初に出たひとつのことを繰り返し手を変え品を変え説明し続けているようなものだ。
それは他でもない東洋哲学がそういうものだからだ。
何しろ東洋哲学では最初にもう「答え」が出ているようなものなのだ!
後は如何にしてその境地に皆を連れて行けるか、同じ体験をしてもらうか、それに尽きるという話になる。
いやはや、後述の西洋哲学の本を読んだ後では、これはもう確かに「何とも不遜な」という表現が分かる気がする。。
じゃあ、全然適当なことを言っているのかというと、それがまた驚くべきことに、そうじゃない。
西洋哲学が論理に論理を重ねてたどり着いたような場所にいきなり立っていたりする。 

 

個人的な趣味で、ピンポイントでひとつだけ内容に触れると、
臨済宗の栄西の章の「公案」での「隻手の音」のやり取り。
現代人にとってこれほど分かり易い説明もないんじゃないかと思った。
「弟子は真っ青になる。」
何だかその気持ちが分かった気がした。そりゃ真っ青になるよね・・・。
まさに、方法論の体系なのだということが簡潔に分かるやり取りだった。

 

 

この本を読む前に、以下の本を読んでおくと、
一見つかみどころのない東洋哲学を、
つかみどころのある西洋哲学に照らし合わせることができるような感じになるので、
というか、以下の本で説明された話も出てくるので、
併せておすすめしたい。

 

『史上最強の哲学入門』(飲茶、マガジン・マガジン、2010)

史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)

史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)

 

 

さて、西洋哲学にしろ東洋哲学にしろ、
そういうことを考えて一体何になるのよ、という問いかけに対しては、
とりあえず、ストレートにいえば、人類にとって不要なことだとはまったく思えない、
という感じでしょうか。 
何しろ、人類がより良い状態になるために、
(それがその人個人の問題から出発していたとしても、)
考えている、考えてきた、その結果、蓄積だと思うため。
直接的にしろ、間接的にしろ、その恩恵は巡り巡って受けていると思うため。

まあ、何事も適材適所の役割分担だという気持ち。
とりあえず、○○原理主義、というのが一番厄介。 

 

というところで、おわり。

 

しかし、こうして、各時代のいろんな人の話を聞くと(説明されると)、
ある種のスッキリ感が出てきた。 
いや、すべて解決してスッキリ、というスッキリ感ではなくて、
(何しろ、何も解決はしていない、) 
こういうところにたどり着いているんだなあということを知ったスッキリ感というか。 
このスッキリ感を礎にして、先に進みたい。 

キリがないので、おわり。