昨夜に引き続き、開かずのダンボール箱から出てきた古い本のご紹介。
最初はスルーしようと思ったが、やっぱり少しだけ書きたくなった。
『ライ麦畑でつかまえて』 (J.D.サリンジャー(著), 野崎孝(翻訳)、白水社、1984)
- 作者: J.D.サリンジャー,野崎孝
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1984/05
- メディア: 新書
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内容はともかく、タイトルを聞いたことがないなんて人はいないんじゃないかと思うくらい有名な本だと思うけど、実際はタイトルを聞いたことがないという人にたくさん会ったので、人間は、自分が重要視している事柄は過大評価してしまうものだということが分かった。。
さて、物事にはいろいろタイミングがあって、例えば、本でも、ある特定の時期を逃すと、もうその本を楽しむことはできなくなる、ということがあるんじゃないかと密かに思ったりしている。
この本に最初に出会ったのは、中学か高校のとき。
今でこそ小説はまったく読まなくなってしまったけど、
子どもの頃は名作といわれるようなものにしばしば手を伸ばしていた。
一体何が書いてあるのかと気になって。
で、その流れからこの有名な本を手に取ったわけだが、
読んだ感想は「何だこれ?!」という感じだった。
意味が全然分からず、楽しくもなく、恐らく最後まで読まずに途中で本を閉じたと思う。
そして、そのまま本棚に数年眠ることになった。
次にこの本に出会ったのは、大学のとき。
部屋の本棚に眠っていたのを取り出して読んだのだった。
そして、この本が僕の人生に刻まれることになった。
読んだ感想は「ホールデンは自分だ! ここに自分がいる!」
そんな感じだった。
多分、この本が好きな人は大抵そう思うんじゃないかと思ったりするけど、
上述通り、自分の思うことを過大評価しているだけで、全然違うかもしれない。。
ともかく昔と違い、夢中になって最後まで読んだように思う。
なぜそんな違いが起きたのかのいきさつは全部省いて、
ともかく、読後、随分長い間この本の影響下にあったように思うけど、
今、この本を読み返す気になるかといえば、気が乗らない。
読むとしたら、懐かしさをたどって、というような感じになりそうだ。
良くも悪くも、もうホールデンではない。
ホールデンが、あの話の後、どういう人生を辿ったのか知る由も無いけど、
自分はあの話の先の人生を否応なく歩んでいるし、
いろいろ学んだし、いろいろ変わったし、そんなに悪い話じゃないよ、
と彼に伝えたい。
一箇所だけ引用。物語の中盤で博物館の話が出てくる。
でも、この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ。誰も位置を動かさないんだよ。かりに十万回行ったとしても、エスキモーはやっぱし二匹の魚を釣ったままになってるし、鳥はやっぱし南に向かって飛んでるし、鹿も同じように、きれいな角とほっそりしたきれいな脚をして、あの水たまりの水を飲んでるはずだ。それから胸をはだけたインディアンの女も、相変わらず、あの同じ毛布を織りつづけてるだろう。何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちのほうさ。といっても、こっちが年をとるとかなんとか、そんなことを言ってんじゃない。厳密にいうと、それとはちょっと違うんだ。こっちがいつも同じではないという、それだけのことなんだ。
(中略)
ものによっては、いつまでも今のまんまにしておきたいものがあるよ。そういうものは、あの大きなガラスのケースにでも入れて、そっとしておけるというふうであってしかるべきじゃないか。それが不可能なことぐらいわかってるけど、でもそれではやっぱし残念だよ。
確かにその気持ちは今でも分からないことはないし、否定する気持ちは全然ない。
それを踏まえたうえでなお、今は以下の世界観でしっくり来るし、
それで良い、それが良い、そんな気持ち。
CDもすべて手放したしなあ。。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。